取材・文 松本あかね
写真 米谷享

今のわたしができるまで 第二回「ユーゴさん」後編

「わたしの好きな言葉はピリオド。
はじまって終わってまたはじまる…」

布ナプキンブランドとしての地位を確立したtouta.(トゥータ)。
廃材生地を使うというブランド理念と、製品としての完成度を追求した結果、
製作にはセンスと技術を要し、量産するためのハードルは上がることに。
納期に終われる日々を送りながらも、ブランドのハートを守り続けようと奮闘するユーゴさんに、再び思いもかけない試練が訪れました。

フェイズ3 廃材生地を超えて。一人になる。

小規模なアトリエで量産する、それは時に主宰者が昼夜を問わない作業で切り抜ける事態も多々あることを意味した。納期に間に合わせるため、ひとりで負担を追うことが重なり、裁ちばさみを持つ体の右半分への負担で顔面が麻痺してしまったことも。
布ナプキンがtouta. の主力商品となり、たくさんの人に受け入れられるようになる反面、舞台裏では納期に終われる生活が始まりました。作っては納めることの繰り返しの中で、やがて布ナプキン作り以外のモノづくりができない欲求不満や、「布ナプキンメーカー」としてだけ認知されることへの抵抗もあったといいます。これでいいのか、これが望んでいた道なのか、逡巡する日々。ところがその日々は、誰もが思いもかけなかった出来事によって、終わりを告げることになります。

東日本大震災

あの日、そしてそれに続く日々のなかで、多くの人たちが何ができるのか、これからどうすべきかを自問していたとき。ユーゴさんのとった行動は明快でした。布ナプキンを被災地へ送ろう。現地では洗うことはできないのでは、という声もあったけれど、「緊急時にこそ肌に心地よく温かな布ナプキンを」との思いから、母子保健活動を目的とする国際協力NGO、ジョイセフ(Jpanese Organization for International Cooperation in Family Planning)のアドバイスをもとに決断、在庫を全て寄付。「非常時こそ布ナプキンを」、その長所をユーゴさんはウェブサイトにこのように綴っています。

《洗えずに捨てたとしても、自然素材の布ナプキンは下着の替えがない時や、お風呂に入れない時のカブレなど肌が炎症を起こしやすい状況下において、肌に負担が少ないのはもちろんのこと、その場で燃やしても安全です》。

「だって困っている人がいるんだから」

ユーゴさんはその理由を、他の言葉で説明しきれない。きっと何度も聞かれた問いなのでしょう。けれどそれには重い代償が伴いました。取引先からの苦情はもとより、スタッフから理解を得ることも難しかったのです。結果、事業主として、厳しい立場に立たされることになります。
「どうしてそんなことを、と一部のスタッフやパートナーからも。でも困っている人がいるんだから、送るのは当たり前だった」
ユーゴさんの目は、被災地の女性の置かれた状況をまっすぐ見据えていました。女性が幸せになるために、同じ女性同士、助け合うことへの「使命感」は、すぐ身近の誰ともわかちあえないほど、熱かった。その温度差が、はからずも明らかになった出来事でもあったのです。

震災直後から『LOVE FOR NIPPON』(※)の活動に携わり、被災地に向けて布ナプキン情報を発信。現在も「11日」の月命日には福島を訪れるといいます※『LOVE FOR NIPPON』:東日本大震災をきっかけに設立された、キャンドルジュンさんが主催する被災地支援組織

ひとりのtouta.

2014年、touta.を始めてから12年がたったとき、ユーゴさんはひとりに戻りました。
使命感を原動力に突っ走ってきた12年間、「次世代に繋がるモノ、コトづくり」、「女性が生理期間を嫌でなく過ごせる」、そうした理念を込めた布ナプキンが完成し、多くの人に使ってもらえるようになったこと。その間、布ナプキンの普及のためのさまざまな活動にも携わり、本も出版したことで、「やりきった」、1クールが終わったと感じていたユーゴさんは決意します。もう一度、新しいものが生まれる時の、あのワクワクする創作意欲を感じたい、感じるままに、手を動かしたい。ついに事業を縮小、ひとりに戻ることにしたのです。
「広げる時は無我夢中でしたが、逆に縮小するのはそれ以上に大変というか、予想以上の出来事でびっくりしました。touta.のコンセプトを理解して、一緒にここまで来てくださった方々の信頼を裏切る行為とはわかってはいたものの、そこまでの自覚がなかったのかもしれません」

様々な色柄のパッチーワークが,、光に透けてステンドガラスのよう

布ナプキンが世界を広げてくれた

事業を縮小する一方で、気がついてみれば、ユーゴさんの世界は布ナプキンの活動を通じて、ぐんと広がっていました。翌年には、布ナプキンのおかげで縁のできた土地を訪ねる旅へ。ロスアンゼルス、アフリカ、鹿児島、沖縄、月命日には福島。中でも昨年夏に訪れたザンビアでは大きな出会いがあったといいます。ひとつはジョイセフの事務局長、鈴木良一さんとの出会い。

ジョイセフの視察に同行する形で、小さな村々を巡る旅の最終日、ユーゴさんのふとした質問から5時間に及ぶディスカッションに発展。以来、意気投合したふたり。「これまでのこと、今後のこと。自分の使命を果たすたには、どうしていったらいいか」と問うユーゴさんに鈴木さんは答えました。「ユーゴの話を聞いていると、僕の大好きな女性と重なるんだ」。そう言って、女性が主体的に生きられる環境づくりの啓蒙に力を尽くした加藤シヅエさんの名を挙げ、「彼女のやり方はこんなふうだったよ」と話してくれたといいます。そしてこう激励しました。女性としての生き方と向き合い、人生の向上を目ざす同志ともいうべき仲間を世界中に作りなさい、と。

ザンビアのマタニティハウス前にて。ユーゴさんの両側の女性が身につけているのがチテンゲ

ザンビアをはじめ途上国では、月経教育を受けないまま初潮を迎えたり、生理用品を持たないがゆえに、その期間学校を休まざるを得ない少女たちがいます。衛生観念が不十分な中、適切な処置法が普及していない現状もあります。そこでユーゴさんは考えました。「布ナプキンを通じてできることは何か」。帰国後、さっそく書き起こした計画書の中で、月経教育の必要性と、布ナプキンの普及活動への思いを訴えました。

《月経教育と縫製技術の伝達を含めた機能的布製ナプキンの普及活動は、女性自身がこれまでの環境を変えるモチベーションともなり、月経を前向きに捉え大切な体の機能として受け入れ、多くの女性たちが心豊かに過ごすことを実現します。よっては家族や地域社会に止まらず、世界中へと愛・をもたらすことへと繋がります》(傍点筆者)

アフリカのパワーそのもの、「チテンゲ」。

ザンビアでのもう一つ出会いは「チテンゲ」。
「すごいでしょ、これ、アフリカのパワー!」
と見せてくれたのははっきりした色使い、くっきりした柄模様が印象的な布。
「太陽に映えるんです。腰に巻いたり、赤ちゃんのスリングにしたりして、一枚でいく通りにも使っているんですよ」
「布は何にでもなる」という持論が、ザンビアでは当たり前のように実践されていることを、我が意を得たりというようにユーゴさんはにっこりします。
「ゆくゆくは、布ナプキンに廃材生地を使うことをやめて、チテンゲに移行しようと思っています」
それは、ザンビアの支援のため? と問うと、
「支援というよりも、同じ地球上の国としてつながり、同じ女性が月経という体の摂理を通してつながりあう、循環のシンボルといったらいいかな。廃材生地とはまた別の“循環”を伝えてくれるものだと思うんです」。

市場で買い求めてきたチテンゲ。「自分で布を選ぶのは楽しい。廃材生地の場合は来るもの拒まずだから」

touta.の5年後

「廃材生地をやめよう」と思うようになったのはつい最近のこと。廃材生地を取り囲む状況は、実は厳しい。多くの人がtouta.の製品を手に渡るにつれ、このジレンマに直面するようになったといいます。これまでは、「わかってくれる人だけに向けて作っていたのかな」、とつぶやくユーゴさん。
アトリエでは、素材を判断するのに、ときには繊維を燃やしてみて確かめるのだそう。そのような工程から始まるモノづくりに対し、廃材の素性を問われたら、基準がどこにといわれたら。いってみれば古着屋さんの古着と廃材生地は、その素性の情報の少なさという面では似た状況にあります。
「衛生用品として考える限りの配慮はしてきたつもり。これまでやってきたことが、全部がだめかといったら、全部がだめという訳ではないと思いますし」
とはいえ受け手がより多くの人になった今、touta.も変わらざるを得ないとユーゴさんは考え始めています。

ワイヤーチェアも端切れを編んだマットであたたかな印象に。真似してみたいアイデア

ラブ & ピィース!

ユーゴさんからのメールの最後には、いつも、ラブ & ピィース!のサインがあります。
たとえ受け手が世界に広がったとしても、活動の源が「ラブ&ピィース」の精神であることは変わらない。いってみればそれを伝える媒体が変わるだけ。ユーゴさんの「使命」を、別のことばでいうとするなら、「女性が幸せになることを通じて、世界に愛と平和を広めること」。キュートな布ナプキンで多くの女性をハッピーにした。「廃材循環プロジェクト」に取り組んで、子どもたち、子どもたちの友達、好きになった人、その家族のために、持続可能な社会を作るための選択肢を示唆した。さて、これからより多くの人に「ラブ&ピィース」を広げていくにあたって、その手は何を創り出すのだろう?

今、ユーゴさんには温まりつつあるアイデアがある。それはこれまでの布ナプキン作りに大きな変換をもたらすことになるかもしれないといいます。これまではいわば、無駄になってしまったものを引き受ける立場。その使用にあたっての難しさを細かな手作業とセンスで補ってきた。けれどこれからはそもそも、無駄を出さないモノづくりへの飛躍を考えているのだといいます。
「それが、これまで私がやってきたモノ作りの現代版ということになるんじゃないかと思うんです」。
ひたすら自らの手と感覚を頼りにモノ作りしてきたけれど、これからはコンセプトはそのままに、作り手は機械に一任することになると思う、とも。「それは、先進国の最新技術があって可能なモノづくり。とはいえそれが唯一の正しい方法というわけではなく、途上国では途上国のやり方がある。その二つは並行して存在しうるもの」と位置付ける。
そしていわば第二世代の布ナプキンが実現したとき、世の中の布ナプキンのスタンスは書き換えられるはず、と遠くを見るようにいう。
ゼロからの新しいモノづくりは、すでにユーゴさんの頭の中で始まっているのです。


実家の町工場閉鎖に伴い、2012年、跡地に併設されたアトリエとショップ兼マルチスペース

エピローグ

この春、ユーゴさんは4月から高校生になる娘と、NYへ旅した。
エネルギッシュで、アートと現実世界がロマンチックに手をつなぐ街で、ユーゴさんがその躍動する空気を胸いっぱいに吸い込んだことは想像に難くない。帰国後、新しいスタート地点に立った彼女が始動するとき、4つ目のフェーズはきっともう始まっている。


この日集まってくれた家族同様の叔父さん、叔母さんと、ふたりの娘さんとマルチスペースにて記念撮影。というのもこの春、叔父夫婦はニュージーランドへ移住。長女の杏さんはNYへ留学予定。家族にとっても節目の春を迎えた

お話を聞くひと

ユーゴさん
布ナプキンをはじめ廃材生地×オーガニックコットンの創作を手がけるブランド touta. 主宰。布ナプキン協会理事。 “キュート・ハッピィ・ラブ・ピィース !!”をテーマに活動。東京・世田谷の実家の町工場跡にアトリエと予約制ショップ兼マルチスペース「upopo by touta.」を構える。
touta.org

1974

東京に生まれる。

家族経営の町工場が軒を並べ、路面電車が走る世田谷の下町で育つ。

1987-1990

高校時代

世はバブル景気。渋谷を中心に下北沢、原宿などでファッション、音楽など若者文化が花開く。その洗礼を浴び、様々なジャンルのファッション・カルチャーに浸る。

1990-96

就職と初めての起業

高校卒業と機に独り立ち。古着、アンティーク家具を扱う会社に勤めるも、自営業の方が向いているかもと退社。輸入代行業の起業を目指し、資金を貯めるため、当時普及し始めたばかりの携帯電話の契約販売会社に登録。成績を伸ばし、そのまま代理店を開業。これが初めての起業となる。

1996-97

結婚と長女出産

長女が十ヶ月の頃、仕事を再開。実家の町工場で働きながら、仕事を探すも難しく、ならば自分でやるしかないと、後の『touta.』の前身となるキッズ&レディースウェアブランド『mueseO3』を立ち上げる。

2000

次女出産

ブランドの運営に加え、実家の町工場で働き、インテリアや子ども服のスタイリングなども手がける。この頃、古着をリメイクした子ども服を娘たちに着せる。

2003

touta.設立

古着、廃材生地×オーガニックコットンを素材としたキッズ&レディースウェアブランド、『touta.』設立。また布ナプキンと出会い、自らも開発。普及活動を始める。

2008

廃材循環プロジェクトを開始

国内での布の再利用を高めるため、廃材生地の回収窓口を取引先店舗、企業まで広げる。

2009

冊子『布ナプキンの本 身体のこと環境のこと繋げていけること』制作

2010

『布ナプキン〜こころ、からだ、軽くなる』出版

現在まで売れ続けるロングセラーに。

布ナプキン協会発足

布ナプキンのメーカー同士が繋がり、災害時など緊急時の寄付、情報提供などの協力を目的に結成。

2011

東日本大震災

布ナプキンの在庫を全て、ジョイセフを通じ被災地の助産院などへ寄付。

2013

アトリエ、マルチスペース新設

実家の町工場を畳むにあたり、跡地へアトリエとマルチスペース『upopo by touta.』を併設。

2014

事業縮小

製作、検品、出荷ほか全ての業務をひとりで行える規模に縮小。

2015

ザンビア視察

これを機に、チテンゲプロジェクト、月経教育と布ナプキン縫製技術の普及活動を計画。

2016

新世代布ナプキン開発へ始動。