子どもと学び、大人の学び《往復書簡》

2011年神奈川県逗子から沖縄に移住し、やんばるの森暮らしを経て2019年食堂「波羅蜜」をオープンさせた根本きこさん。 2013年東京吉祥寺から長崎県雲仙市に移住し、2019年に「オーガニック直売所タネト」をオープンさせた「台所の学校」主宰奥津典子さん。 互いの年が近い3人のお子さんがいて、都会から地方へ移住し、その地でしっかりと根を張るお二方。 子育ては、親にとっての先生でありまさに学校のようなもの。小学生や中学生、高校生の子たちの子育ての話しや不登校、オルタナティブ教育、子どもとの日々のなかでの気づきや学び、考えたことなど、お手紙のやりとりという形で投げかけます。

奥津典子(おくつ のりこ)
1974年生。東京と長崎育ち。「台所の学校」主宰
2003年よりorganic baseを、2019年よりオーガニック直売所タネトを雲仙に、夫と開業。15歳の長女と地元の素材を活かしたランチとお菓子を提供。コロナ禍で中止していた教室も今秋より再開。2013年より雲仙市在住。年の離れた3児の母。著書に『奥津典子の台所の学校』(WAVE出版)ほか。
撮影:大沼ショージ

根本きこ(ねもと きこ)
波羅蜜の料理担当。2011年、ご夫婦で切り盛りしていたカフェ「coya」を閉め、長年暮らした神奈川県・逗子から沖縄へと移住。以来沖縄に根を張り、2人だった小さなお子さんはティーンエイジになり、さらにもう1人お子さんも増え、にぎやかに暮らしている。2019年、沖縄・今帰仁にカフェ「波羅蜜」をオープン、その味を求めて本州など遠方から通うファンも多い。近著に『沖縄 今帰仁「波羅蜜」の料理 カレー、ときどき水餃子』(KADOKAWA刊)。

アートディレクション+デザイン 嶌村美里(studio nines)
企画構成 藤田ゆみ(くらすこと)

そもそも子どもって?

典子さん

 こんにちは。
今年はお互いに年女ですね。寅年は、太陽系いちばんの吉星である木星の恩恵をたんと受けるのですよー。
そんな木星の意味するところは発展、飛躍、種まき。あたらしいことを始めたり、次の展開に向かうタイミング。なにか思い当たる節はありますでしょうか。

 典子さんから頂いたお手紙の文面から、 16歳の愛子ちゃんが「ずん」と感じていることが振動として伝わってくるようでした。いろんな職業のおとなと接する環境はなかなか鍛えられますね。まさに地域の直売所ならではのコミュニティなんだと思います。それから愛子ちゃんの発言はさすがさそり座!。「愛子語録」、すごく真っ直ぐで刺さりますね。
愛子ちゃん推しのCDや本、「飛ぶ教室」以外、読んだことがないものばかりでした。(子どもたちは「銀魂」もちろん知っていた)気になっていた「竹原ピストル」も、ちょうどいい機会なので聴いてみます!。

 さて、「タネト」も然り、「子ども」(と区分される年齢)と働くとなると、自分たちの言動行動に「おとな」として、ふと立ち止まることが確実に多くなりますよね。それが「わが子」だとなお更ですが、それはちょっと傍に置いておいて、今一度「子ども」とは?と、問い直してみようと思いました。

 というのも、つい 100年くらい前までは、「子ども」と「おとな」の境目が今よりずっと曖昧だったようです。それが徐々に年齢別に分けられ、近年はさらに細分化の傾向。余談なんですが、子守唄の歌い手は母親ということに限らず、「子守りの子ども」の場合も少なくなかったとか。(寺尾紗穂さんの「わたしのすきなわらべうた」を聴いていると、歌詞から当時のリアルな情景が伺われて興味深いです)

 うちの子たちが通っている牧場をみると、それこそ子どもだらけではありますが、入れ替わり立ち替わりそれこそ日替わりで、1歳から70歳くらいまででいろいろな人間が出入りしています。(タネトもそうですよね)
ここでは子どもは子どもとして扱われないというか、子どももおとなも個々の力量で「できる・できない」の差があるだけで、まだひとりでは乗れない場合は鶏や犬猫のお世話をし、いざ馬に乗るときはスタッフが手綱を引き、そのうちスキルがついてきたらひとりで乗る。
まぁ馬にとってみれば年齢などあってないようなものですから。上手か下手か、気が通っているか否か、ただそれだけなんですよね。
生命のひと繋がりから、「子ども」という人間存在が切り取られていった。それがどんな影響を社会に与えるのかと考えると、軽く「時代だった」とは一蹴できないような気がするのです。

写真:関めぐみ

 牧場での、担任の先生的存在のNさんは、雨の日も風の日も淡々と動物のお世話をしています。「いのち相手だから休みとか関係ないですね」とさらっと言いますが、その姿にはほんとに頭が下がります。Nさんとはもう10年近い付き合いなので、先生というだけではなく、ともだちでもあるし、仲間、同士でもあります。
ゆるやかに子どもの居場所に関わり合うプロセスが、「みんなで子どもたちを育てていこう」という意識を生んでいるように思います。(最初はお互い知らない者同士、それこそ疑心暗鬼な時期を経て)やっぱりね、思うんです。オルタナティブスクールの先駆け「サマーヒル」の創業者A.Sニイルも言っていたように、「問題の子どもはいない。問題のおとながいるだけだ。」と。このことは今も自戒を込めて反芻しています。

写真:関めぐみ

 公学校とは違う学びを探っていた当時は、「親の価値観を押し付けているだけじゃない?」など問われましたが、それはちょっと違うかなぁと。というのは、わたしの世代はもちろん、ほとんどが公学校に通っているわけです。それこそ 99.9%。自分の経験値として公学校しか知らない親が、公学校以外の場所を目指すことは(ホームスクーリング含め)、まるで清水の舞台から飛び降りるくらい勇気がいるもの。ましてや夫婦間の価値観や、地域の目、仕事、お金……様々な問題があります。むしろ今までの自分の「価値観」をどんどん壊していかないと前に進めなかった。だからか、長男が無事に義務教育期間を満了したときは、なんだかへなへなーって気が抜けました。(とはいえ長女に次女と先は長い…)

 公学校に行かないとなると、気になるのは「勉強」ですが、わが家の場合は家庭学習なので(牧場では「教科」がありません)、それこそ「これだ!」と思った教材は片っぱしから試しました。いろいろやってみて何がいちばんよかったかというと、教材うんぬんよりも、いっしょになって取り組むこと。
もっと極端に言えば、眼差しをを子どもに向けることだなぁ、と。長男のときはけっこうキツめの眼光注ぎ過ぎちゃって、かなり無理させてしまったので、そこからの反省もあって。
そもそも「学び」は受動的なものではなくて能動的なものなんですよね。やるなと言われてもやるし、やれと言われてもやらない。なので嫌じゃなくやっているというだけで、そこから十分に学んでいるんですよね。ましてや好きなことなんて、それこそ棚ぼただと思っています。(笑)

 さて先日、餃子を一緒に包みながら、改めて長女に聞いてみました。
「自分で『学校か牧場か』を選択した自覚ってある?」と。
娘はしばし考えて、「うーん、ないかも。だって、選択って例えば『焼き餃子か水餃子か選ぶ』ってことでしょ?牧場が好きだから牧場に行っているだけ。比べた結果じゃない。」
その返答はなかなか面白いなと思ったのです。

 そこを踏まえて、「教育の選択」という言葉と向き合うと、その言葉自体はとても魅力的だし、こと更、小中学校の不登校を肯定する際には威力を発揮すると思います。そんなわたしもずっとこの言葉を愛用しておりましたが、でもなんか目の前の子どもたちを見ていると、「ちょっと違うみたいだなぁ」と思い始めて。

 長女の大好きなシンガーソングライター、中村佳穂さんの「アイミル」という曲の歌詞を引用します。
「つまりもっと大胆に
『いや』は『いや!』と言ってちょうだい
否定じゃない選んでいるだけさ
君が君をつくるのさ」

「否定じゃない選んでいるだけさ」という歌詞から、なるほどなと思いました。「選ぶ」という言葉が「いや!」をやんわり代弁している。でもこの忖度は、子の気持ちを尊重するための「大人の事情」ってやつですね。
でも実質的な意味で、選択可能な未来はそう遠くはないんじゃないかなと思います。
あちこちまるで、雨後の筍のようにフリースクール設立の話しを耳にしますから。

 まとめると、人ってつい先の先のことを考えて複雑になりがちですが、実はとってもシンプル。「今」の積み重ねが結果として未来になるので、その「今」をご機嫌に過ごしていれば大丈夫。と、6年くらい前に思ったんですが、ますますそれを確信しているんです。
まぁ、「悲観は気分、楽観は意志」って言いますし、不安になりそうだったらまずはお日様浴びて、いっしょに食卓囲めたらそれがいちばん、って。(笑)

これからますます日が伸びて、陽差しがさんさんと降り注ぐ季節が訪れますね。
どうぞ、健やかにお過ごしください。

根本きこ

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