今のわたしができるまで
第三回「Float 牧野秀美さん」前編
香りは深くしみこむもの、
感覚を研ぎ澄ましてくれるもの
充実した仕事をしているあの人も、輝く雰囲気をまとっているあの人も、ゼロから突然今いる場所に立っているわけではありません。
誰もがみんな、ときに迷いながら歩き続けて今のところにいる。
この連載では、「くらすこと」がすてきだと思う方々に、
これまでの道、今、そしてこれからのことについて、お話を伺っていきます。
庭で摘んだローズマリーから芳香蒸留水を作る。銅製の蒸留器に注目。ワークショップでデモンストレーションすることも。
ふわっといい香りのする人
どうぞ、と開けてくれた車の中から、今朝庭から摘んできたばかり、というローズマリーがすっと香りました。
ここは鳥取県米子市。海沿いの道を走り始めると間もなく、目の前に大山が見えるはずが、あいにくこの日は曇り空。
「晴れていたら正面に見えるんですよ。きれいなんです、稜線がずーっとつながっていて」
と運転席から残念そうな声。
『Float』を主宰する牧野秀美さんは、植物の精油を使ったナチュラルコスメティックを手がけています。
植物エキスを豊かに含んだ、肌にやわらかな使い心地とともに、印象的なのは香り。さわやかな風が脳まで届くような鮮烈さ。それでいて遠い昔から知っているような懐かしさ。余韻をたどろうとしてもどこかへ行ってしまい、まるで植物の精からギフトを授かった人の手になる、秘密の調合のようなのです。
ご主人が週末通って手を入れてくれている。セルフリノベーション中の仕事場。
車はやがて昔ながらの瓦屋根が集まる集落を抜け、ほどなくして、「着きました」。
少し高台になっていて、田んぼを見晴らすこじんまりした平家です。 主人が週末に通って少しずつ手を入れているそうで、これからもどんどん居心地が良くなりそうなアトリエ、というと、恥ずかしそうに手を振って「そんな立派なものじゃないんですけど……」
ここが牧野さんがプロダクトをつくる拠点、いろいろな香りを調合する場所なのです。
アロマセラピーのテキストに直接、効能を書き込んでいきます。
2歳の娘と子連れ留学
アロマとの出会いは、当時2歳の長女をつれていった留学先でのこと。このときの留学は念願といっていいものでした。
「留学に行こうとしていたら妊娠がわかったので、ずっと心残りで」
2歳になるのを待って勇躍旅立った先はニュージーランド。「語学だけより、何か学べたらいいかな」という動機で選んだのが、アロマセラピーの学校でした。
滞在中、いつも乗っていたバス停前で。
「今考えれば、2歳は一番大変なときってわかるんですけど。言葉の壁もあるし、自分も勉強せんといけんし、行ってすぐに、これ無理かも、と」
加えてベビーシッターもしてくれるはずだったステイ先では信用が揺らぐトラブルが発生。ここに娘を預けるわけにはいかないと、急遽新しいホストファミリーを探す決心をしました。
まずはキャンセル分を返金してもらおうと、仲介業者のオフィスへ。地図を片手にベビーカーを押してウロウロ。そうこうするうちに1時間に1本のバスは行ってしまうし、雨は降ってくるし、「涙がポロポロ出てきました」。
返金が完了すると、今度は新しいステイ先探し。こちらもすんなりとはいかず、子連れを理由に散々断られた末、掲示板で見つけたファミリーが受け入れてくれることに。保育園も最後の1枠に滑り込んで、晴れて安心して学校に通えるようになったのです。
保育園のお迎えの後は公園へ。「たくさん遊ばせてパワーを発散させていました」
ようやくスタートラインに立てたものの、精神的にはクタクタ。そんな牧野さんを、人生を変えるほどの印象的な出来事が待ち受けていました。
「スクールの扉を開けた瞬間、ラベンダーの香りが身体に深く染み渡って、心の底からリラックスしたことを覚えています」
状況が大変だったから、余計身にしみたのかな、と振り返ります。異国の地で小さな娘と二人でがんばった時間があったからこそ、香りの持つ癒しの力に気づくことができたのかもしれません。
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おととい生まれたばかりの女の子。「お名前は決めとられました?」
不妊治療から出産まで手がけるクリニックで働く
「こんなに大変だったのだから、絶対に仕事にしよう」、帰国した牧野さんはすぐに行動を起こしました。
扉を叩いたのは、米子市で不妊治療から出産までを手がける、ミオ・ファティリティ・クリニック。
「自分も子育て中だったし、関わるなら産後のお母さんだと思いました」。
「私を使ってほしい」、飛び込みで直談判に訪れた牧野さんの話を、クリニックのスタッフを束ねる東陽子さんは真摯に耳を傾けてくれました。
「ここは、ご夫婦の夢と希望である赤ちゃんをなんとか叶えて差し上げたいという思いから始まった施設です。そして、授かった赤ちゃんをこの世に送り出すところまで、しっかり見ていくのも役割だと思っています。女性の一生にはさまざまなフェーズがありますが、健やかで心穏やかに、しなやかな生き方ができる心と体作りということを考えたとき、代替医療の分野の方とお互いに補完できることがきっとあるだろうと」
「お腹に入っていたなんて不思議ですね」
気軽な会話から施術が始まる。
こうして、晴れて医療と代替医療がタッグを組むことになり、牧野さんは産後のお母さんにアロママッサージを施術することになりました。
約束の時間、そっとドアを開けると、赤ちゃんとお母さんが寄り添って寝ています。何度経験しても、「特別な場所にいさせてもらっている」ことに身が引き締まる瞬間です。時間は30分間。その決して長くはない時間のなかで、
「なぜだろう、みなさんすごく身を任せてくださるんです」。
幸せいっぱいでこれからの子育てについてわくわくと質問するママ。話をするうちに気持ちがほどけ、わっと泣き出す新米ママ。三人目だけれど、上の二人も小さいし、家に帰ってからやっていけるのか不安でと、涙を流すお母さん。
「みなさんいろんな気持ちがね、出てくるんです。触れられると安心が深まる。オキシトシンがすごく出るから。それプラス、精油の香りがあると、気持ちが解き放たれるので」
「おっぱいが出ないという方も、肩の周りをマッサージするとすごく出るようになりました、と」
オイルマッサージをすると、経皮吸収によって約5分後には精油の成分が毛細血管に入っていくといいます。すると産後、活発だった交感神経が緩み、呼吸が深くなり、脈拍もゆっくりに。次第に張り詰めていたものがほどけるように、お母さんたちは素直な気持ちを吐露し始めます。
「産後の無防備な状態で30分、向かい合う機会は助産婦さん、看護婦さんにもなかなかないと思います。そういう時間を預けてもらっているんだと」
このクリニックでの最後のケアを任されているのは自分という自覚が生まれたのは、「不妊治療に5年通って授かりました」というお母さんに施術をしたときだったといいます。
これまで施術してきた方のお名前。手にオイルがついたままメモするのでシミだらけに。「私の歴史なので捨てられません」
香りは忘れない
「精油は植物の血のようなもの」、いつしか牧野さんはそう捉えるようになりました。数kgの植物から得られるのはティースプーン1杯程度のものも。凝縮したエッセンスにふれたとき、人の心と身体にどんな変化が起こるのか。臨床の場で新しい発見、可能性を見出す毎日は夢中で過ぎていきました。
仕事場にはいつも何かしら植物を飾って。
お産はいつ始まるかわかりません。週末、家族とともに車で駆けつけ、ご主人が公園で子どもたちを遊ばせながら待ってくれたことも。
クリニックでただ一人のアロマセラピストとして、ほぼ穴を空けずに続けられたのはそうした家族の応援があったから。それから自分の身体のメンテナンスも大きな課題だったといいます。
「12年間体調を崩さずに続けてこられたのは、毎日アロマを使って免疫力が高まっていたのかもしれないですね」
あるアイデアが浮かんだのは、そうした日々の真っ只中。クリニックに通うようになって8年ほどたったときのことでした。
「退院するとき、お母さんと赤ちゃんに何かギフトを贈れないかな」
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お話を聞くひと
牧野秀美さん
Float代表/アロマセラピスト。
クリニック(不妊外来、産科)での施術を経て、ナチュラルコスメブランド『Float』をスタート。精油を使ったスキンケア用品、フレグランスなどのプロダクトを手がける。全国各地のイベントへの出店、ワークショップ・講演等の開催も。鳥取県米子市在住。
float.jpn.com
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写真 林田摂子
文 松本あかね
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